「売れますか」と聞かれると、答えに困ることがあります。
借地権付きの戸建を持っている方が、最初に口にするのは、たいていその一言です。ただ、少し話を聞いていくと、本当に知りたいのはそこではないことに気づきます。売れるかどうかより前に、もっと整理しなければならないことがある。それが、だんだん見えてくる。
今回紹介するのは、神奈川県横浜市港北区に旧法借地権付きの戸建を持つ、田中さん(仮名・60代)の事例です。個人情報の保護のため、関係者の氏名・詳細は仮名または匿名で記載しています。

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40年近く、住んできた家
田中さんが今の家に越してきたのは、1979年のことです。当時、建物は築すぐ。横浜市港北区内の旧法借地権付き戸建で、土地面積は115.37平方メートル、建物面積は93.56平方メートル。地主は法人で、借地契約は20年ごとの更新。直近の更新は2009年で、そのとき更新料として120万円を支払いました。
住み始めてから40年以上が経ちます。
家のあちこちに、時間の痕跡があります。外壁の塗装が褪せています。屋根も色が落ちている。2階の北側に、雨染みの跡があります。床を踏むと、きしみます。断熱は、今の基準からすると、もう心もとない。
それでも、田中さんはこの家のことを「簡単には決められない」と言います。長い時間を過ごしてきた場所には、それだけの重さがある。
ただ、妻の由美子さん(仮名)の気持ちは、少しずつ変わってきていました。駅に近い場所がいい。階段のないワンフロアがいい。病院やスーパーが近いところがいい。「このまま住み続けること」より、「これからどう暮らすか」に気持ちが向かっている。
二人の子どもたちは、それぞれ遠方で持家があり、この家を相続する予定はないと言っています。
「借地権付き」というだけで、話が変わる

所有権付きの土地であれば、売却や住替えを考えるとき、不動産会社に査定を依頼して、価格を確認して、という順番で話が進みます。
ただ、田中さんの場合は違います。
この家は、土地を「所有」しているのではなく、「借りている」上に建物を持っている形です。土地は地主法人が所有しています。借地権は旧法借地権で、建物の所有を目的とした契約です。
売却や建替えには、地主の承諾が必要です。承諾を得るためには、条件の確認と交渉が要ります。それが済まないうちは、「いくらで売れるか」という数字を出しても、判断の材料としては半分しかない。
そういう構造になっています。
田中さんは、そのことを知らなかったわけではありません。でも、どこから確認すればいいのかが、はっきりしていなかった。地主にいきなり連絡していいのかも、分からなかった。そうして、少し時間が経っていました。
更新が、近づいている

直近の更新は2009年でした。借地契約の期間は20年ですから、次の更新は2029年前後が一つの目安になります。
残り、3年ほど。
更新料が2009年と同じ水準になるのか、変わるのかは、今の時点では分かりません。売却する場合の譲渡承諾料がいくらなのかも、確認できていません。建替えや大規模な増改築を考えるなら、そのための承諾料も論点になります。
これらが分からない状態では、売却、居住継続、地主との協議、どの選択肢も比べようがありません。価格が出せても、条件が分からなければ、手取りの計算ができない。手取りが分からなければ、住替え予算も立てられない。
「更新が来る前に、まず条件を見える化する」。そこが起点になります。
住み続けることにも、コストがある

「今すぐ動かなくていいんじゃないか」と思うこともあります。
ただ、住み続けることは、コストゼロではありません。
田中さんの場合、毎年かかる固定的な負担だけで約43万円になります。地代が年約20万円、建物税が年約15万円、火災保険が年約8万円。ここに小修繕の費用を加えると、年50万円から70万円程度の負担感になります。
建物の状態を踏まえると、今後10年以内に大規模修繕が必要になる可能性が高い。修繕見積は約317万円です。10年保有した場合の固定費だけで、約532万円から632万円が見込まれます。この数字には、大規模修繕、次回更新料、地代の改定、将来的な解体費は含まれていません。
住み続けるという選択は、「今すぐ売らない」というだけでなく、「これだけの費用を将来にわたって受け止められるか」を確認する選択でもあります。
それが、負担として重すぎるかどうかは、人によって違います。ただ、数字を見た上で決めるのと、見ないまま決めるのとでは、後で感じる後悔の種類が変わります。
価格は「仮置き」から始まる

「借地権だから売れない」という話を聞いたことがある方もいるかもしれません。
実際のところ、港北区内での借地権成約は13件確認されています。市場は所有権土地より薄いですが、借地権だから出口がないと決める段階ではありません。
では、価格はどのくらいか。
周辺の所有権土地相場は強く、500メートル以内の平均想定単価は35.4万円/平方メートル、対象地の所有権土地としての参考想定価格は5,411万円とされています。ただし、これはあくまで所有権としての数字です。本件は借地権ですから、そのまま転用することはできません。
借地権価格の参考幅として、1,500万円から2,500万円程度という概算が出ています。ただしこれは、地主条件・建物状態・承諾料が確認できていない状態での仮置きです。実際の売却価格は、この幅から大きく外れる可能性があります。
精度を上げるためには、借地権取引の経験がある不動産会社から複数の査定を取得することが必要です。それは、地主条件が見えてから行うのが筋です。順番があります。
4人の、それぞれの気持ち

田中さんの周りには、4人の関係者がいます。
田中さん本人は、愛着があり、簡単には決められないと言います。40年近くの時間が積み重なっている家ですから、それは当然のことです。
妻の由美子さんは、駅近でワンフロア、病院やスーパーが近いところへの住替えを望んでいます。階段のある生活に、少しずつ不安が出てきています。
長男の翔太さん(仮名)と長女の麻衣さん(仮名)は、相続予定がありません。この家を次世代へ引き継ぐ前提は、強くありません。
地主は、借地継続には応じる姿勢です。ただし、条件交渉はありそうです。
4者の気持ちがバラバラなまま、「売るか住み続けるか」を決めようとすると、どこかで必ず止まります。判断の中心を「いくらで売れるか」だけに置くのではなく、「これからの暮らしをどう軽くするか」に置いたとき、整理の入口が変わります。
3つの方向性と、その使い分け

状況を整理すると、今の時点で考えられる方向性は3つです。どれが正解ということはありません。何を優先するかによって、合う選択肢は変わります。
方向性① 売却・住替え(想定6〜12か月)
地主へ譲渡承諾料・更新条件を確認したうえで、借地権付き建物として売却可能性を査定し、住替え予算と並べて判断する方向性です。売却手取りの参考幅は1,200万円から2,200万円程度(譲渡承諾料・仲介手数料等を差し引いた概算)。住替え先として横浜市内駅近の中古マンション2LDKを想定すると、差額は預貯金や小規模ローンで補完する形になります。建物老朽化、更新料、将来相続の負担を同時に小さくできる可能性があります。
方向性② 更新まで居住(想定1〜3年)
大きな投資は避け、居住継続に必要な最低限の修繕を行いながら、2029年の更新前に改めて判断する方向性です。今すぐ家を離れる気持ちの整理がつかない場合には合う選択肢かもしれません。ただし、10年保有時の固定費だけで約532万円から632万円が見込まれ、ここに大規模修繕・更新料・地代改定が加わる可能性があります。先送りしているように見えても、費用は動き続けます。
方向性③ 地主協議(想定3〜9か月)
市場に出す前に、地主へ借地権・建物の買取意向、底地売却、借地権と底地の同時売却の可能性を確認する方向性です。地主との長年のやり取りに大きなトラブルがないという前提があれば、まず条件を整理して話す余地があるかもしれません。地主に直接買い取ってもらえれば譲渡承諾料が不要になる場合があり、手続きがシンプルになります。底地と借地権を一体で第三者に売却できれば、所有権として高値が期待でき、双方の手取りが厚くなる可能性もあります。

推奨:まず「売れる条件を見える化すること」
現時点では「借地権付き建物として売却し、住替え準備に移る」方向性が、田中さんの状況に比較的合っています。ただし、推奨はいきなり売却活動を始めることではありません。まず条件と価格を見える化してから判断する、という順番が重要です。
田中さんが最も避けたいと言っていたのは、老後に大規模修繕や地主交渉を抱え続けることでした。方向性①が実現すれば、建物の老朽化、次回更新料、将来的な相続の問題を、一度に解消できる可能性があります。妻の由美子さんの住替え希望とも、子どもたちが相続予定ではないという状況とも、方向が合っています。
ただ、「いきなり売却活動に入ること」は推奨していません。地主条件が見えないまま査定だけ取っても、手取りの計算ができない。計算できなければ、住替え予算が立てられない。まず確認すべきことを確認してから、次に進む。その順番を守ることが、後での後悔を減らします。

6か月で「考えなくていい状態」に近づける

田中さんに最初に伝えたのは、今週できることから始めてほしい、という話でした。
- 地主へ確認する条件表を作る(譲渡承諾料・次回更新料・建替承諾料・底地売却意向など)
- 借地契約書・更新合意書・地主通知書・修繕見積を一つの資料セットにまとめる
- 夫婦で、住替え先に求める条件を10個以内で書き出す
これらが揃ったら、次のステップに進めます。弁護士や司法書士に借地契約の法的論点を確認してもらい、借地権取引の経験がある不動産会社から複数の査定を取得する。住替え先の希望条件と予算を整理する。そして、売却・居住継続・地主協議の3案を同じ表に並べて、方針を選ぶ。
その全体を6か月以内に完了させることができれば、「判断できない状態」から「判断した状態」に移ることができます。
更新が来るたびに同じ気持ちになる、というループから、一度抜け出せるかもしれません。
次の一手は、8つの不明点を潰すこと

この事例を整理した時点で、確認できていない事項が8件ありました。譲渡承諾料、次回更新料、建替承諾料、建物買取請求権の扱い、解体した場合の借地権への影響、底地売却・借地権買取の地主意向、借地権付き建物の実勢査定、法務論点。
これらは、すべて「分からないから判断できない」の正体です。
逆に言えば、これを一つずつ潰していくことが、判断に近づく道そのものです。大きな決断は、この8点が揃ってからでも遅くはありません。
旧法借地権付きの戸建は、「売れるかどうか」だけで判断できません。地主条件、更新の時期、建物の状態、家族の優先順位、そして住替え後の暮らしのかたち。これらを同じ表に並べたとき、初めて「どちらが合っているか」が見えてきます。
田中さんの事例は、まだ途中です。これからの確認と対話の中で、方針が定まっていくことになります。ただ、「何から手をつければいいかが分かった」という状態には、すでに移っていました。
それで十分な、最初の一歩だと思います。
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